大人になりたい、子供に戻りたい
 突然、外がざぁぁ、と地面を打つ音で騒がしくなった。午後6時、日本では当たり前の、夏の風景だった。ただ、残りの今日1日を家の中で過ごす予定だった僕にとっては、雨なんか何ら関係は無かったんだけれど、  「戯言遣いのお兄ちゃん、」  ドアが小さく開いて、小さい頭がひょこっと顔を出す。まあ見なくても分かるけどこの骨董アパートの愛すべき住民の崩子ちゃんだった。  「やあ、崩子ちゃん、どうしたの?」  「あの、バス停まで萌太に傘を持っていってくれませんか?私は夕飯の支度があるので…」  「そりゃもう、崩子ちゃんの頼みなら」  萌太君、1日中バイトと言っても、ちゃんと夕飯の時間には帰ってきて、崩子ちゃんと一緒に夕飯を食べる、全国の妹を持つお兄ちゃんに是非見習って欲しい優しいお兄ちゃんだった。(その代わりに夜中にバイトに出向くこともあるみたいだけど)
 アパートからバス停まで、そんなに距離があるわけでは無いけど、やっぱりこの夕立じゃ頭からつま先までずぶ濡れになってしまうには十分過ぎた。  崩子ちゃんは多分(というか絶対)萌太君に連絡を取ってないはずだけど(そもそも連絡手段が無い)、きっと何も言わずとも萌太君はそこで待っているんだろうと思う。  ――なんか、羨ましいな  僕も雨の中を歩く気分じゃなかったから、数分と掛からずにバス停に着いた。やっぱり萌太君はちゃんとそこで待っていて、僕を見つけるといつもの笑顔を向けてくる。  「あ、いー兄、すみません、わざわざ持ってきて頂いて」  「ん、どういたしまして。それにしても…この雨だと無理して歩いて帰るより、ここで雨が止むのを待ってた方が楽なんじゃない?」  「うーん…そうですね…。でも、いいです。帰りましょう。崩子の手伝いもしなくちゃいけませんし、それにせっかくいー兄に傘を持ってきて頂いたので。」  「あ、そう。じゃあ行こうか。」  「あの、『せっかく傘を持ってきて頂いたので』とか言っておいてなんですが、折角だから相合傘…ってそんなあからさまに嫌そうな顔しないで下さいよ。傷つきます。」  「だって…」  「いいじゃないですか、こんな雨ですから誰も外なんて歩いてませんよ。」  これが他の人だったら押し切れるのに、この笑顔で言われると。
 「いー兄、大人ってどんな感じですか?」  「どんな感じって言われても…見たとおりだと思うよ?それに、僕はまだ子供だよ」  萌太君はそれに比べて大人だと思うけど、なんて負けた気がするから言えないけど。実際、僕よりちょっとばかり背が高いのがちょっと悔しい。狭い傘の下に2人でいるとそれがはっきり分かって嫌過ぎる。  「そう、ですか。」  考えるように溜め息をひとつ。  「じゃあ、早く大人になりたいです」  にっこりと笑いかけられる。  いやいや、どうしろと。僕に何を求めているんだ…  「だって、いー兄は何だかんだ言って幸せそうじゃないですか。僕も早く大人になって、崩子の負担が無くなれば、もうここに家族はいますから」  そう言ってもう目の前に来ていた僕達私達の骨董アパートを見上げる(見上げるほども無いけど)。  そしてその視線をそのまま僕に向け、いつもより一段と柔らかい、優し気な笑顔を向けてくる。  思わず目を背ける。…背けるしかないじゃないか。  「そしたら崩子ちゃんは幸せものだね」  「違いますよ、幸せなのは僕です」  そうして小さくひとつ、唇にキスを落とす。  「…夕飯、ご一緒してくれますよね?どうせちゃんと3人分、崩子は作ってくれていますから」  「……崩子ちゃんが作った料理なら、是非。」  どうしても萌太君のほうが優位に立っているのが悔しくて、崩子ちゃんに負けてる気がして悔しくて、  どうせだったら子供に戻って、思いっきり甘えられたらいいのに。
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